雑感

私が心理学に興味を持った理由 ワケ(前編)

どうも、「かざみわし」狩谷亮裕です。
早いもので2020年も残り一週間を切りました。こう書くと「2020」という文字を目にするので、「あぁ。2020といえば、本来ならば東京オリンピックが開かれていた年だったんだなぁ」とか、「今年は(まだ今も。そして当面続きそうですが)コロナコロナばかりの年で気を揉んだなぁ」とか。色んなことを走馬灯のようにふりかえってしまう自分がいます。

当サイト「かざみわし」の前身である、「のほほん結雑記」の方では、年末に自分自身の今年1年の振り返りの意味も込めて『私の今年の漢字』を紹介し、短いものですが、年末最後の皆さまへのごあいさつ として書かせてもらっていました。それが本当の意味で2020年最後の投稿になるのですが、仮面ライダーの考察記事などのように長く書くタイプではないので、中身の多い記事としては、この記事が最後ということになります。

そこで今日は、以前「習慣づけの大切さ」の記事でも書いたように、私が心理学に興味を持った理由というかキッカケを書いていきたいと思います。

習慣づけの大切さふとCMをみていると画面から「メンタリストのDAIGOです。」そのあと彼は習慣づけの大切さを淡々と語ってくれました。これ、何のCMだろう?不思議とみていると、霧島の天然水。意外なペアに驚いて、これは記事にしようと。 私が資格を取る過程で出会い、感銘を受けたNLPや心理学の話を交えながら、『習慣づけの大切さ』を記事にしました。...

「また別の機会に改めて新たな記事として、書いていきたいと思っていますので、」と書きながら、タイミングを逃してしまっていたので、今年最後のしっかりめの記事として、ここに記しておこうと思います。

私の心理学との出会い

私が今のように、心理学と日々のライフスタイルというか、モチベーションを保つために=肌身離さず持ち歩く必須アイテムのようにつきあいだすようになるまでには、いくつかの波・ターニングポイントがありまして。それを今日は項目別にして書いていこうと思うのですが、最初のきっかけは小学6年生ごろでした。

私はのほほんの各記事にも書いたとおり。そして、当サイトの私のプロフィールにも書いていますが、中学校から県内の支援学校に通い、そこからは私と同じように車いすで生活したり、勉強したり…とにかく私以外にも車いすの人がいるんだ。自分だけが特別な病気とかなかまはずれではないんだということを、自分と同じような人たちを自分の目で認識することによって、それまで抱えていた一種の『孤独感』のようなものは徐々になくなりましたが、それまで(保育所・小学校)は、車いすの人間が一人だけだったので、幼いことも手伝ってか自分のことを必要以上に深刻に考えてしまう自分 が必ずいました。

『孤独感』と『責任感』プライドの狭間で
~みんなの行動を食べながら観察するのが日課だった~

担任の先生たちの計らいで、給食の時はつえで上がっていって、皆と同じ教室でランチすると取り決めていましたが、それ以外は基本、私と担任の先生1対1。後に分かったことですが、3年からは私のために特別(支援)学級なるものを作って下さったようです。
そんなこともあり、基本1対1なので、同級生は6人いましたが、特段これといって話すこともなかったです。

私は食べるのが遅い方でしたので、みんなの行動を食べながら観察するのが日課でした。
私は12時過ぎからはじめて、食べ終わるのがだいたい1時10分とか15分くらい。そうすると私より早く12時30分とか40分に食べ終わった子たちが、(というか、食べている最中から)

今日は昼休み何して遊ぶ?←だいたいこういう子たちのグループは野球orサッカーの2択 と話し出すわけです。

特にこの活発に外運動するグループは、もうこの昼休みの段階で「放課後ランドセル置きに帰ったら、グラウンド集合な」と昼休みでは飽き足らず、その日の放課後のことまで話し出していました。この子たちは、高学年になってくると地元の野球チームなどやはり運動系のクラブ等に所属し、放課後を過ごすようになっていきました。

もちろん、みんながみんな というわけではありません。
中には女の子同士で教室か運動場に出て話をしたり、どこのグループにも属さず一人で本を読んでいたりする子も。

私の小学校は6年間通して全校児童が40を少し上回ったり、下回ったりしていた小さな学校でしたので、母数が少ないながらも個性豊かな様々なグループがありました。だからグループ観察が必然的に日課となっていた私にとって、低学年から高学年までグループ全体を把握しやすかったというのもあります。

※ここまで読まれて、なぜ私がグループ観察が日課 とまで書いているのか?きみもどこかのグループの輪に入ればよかったんじゃないの?と思われた方もいるかもしれません。そんな方のために、少し補足を…。

私の小学校では、今はまたさらに当時より母数が少なくなっているので、当時と同じかは定かではありませんが、私がいた当時は、

12時過ぎ~昼食開始→13時25分~5分間のそうじ→そのまま5限目

という流れだったので、私も高学年くらいになると少し食べるのが速くなってきて、速ければ12時40分~50分の間に済ませられるようになったので、だいぶ昼休みに読書だったり、同級、下級生たちといっしょに話をしたり。楽しい時間を過ごせるようになりましたが、その当時の平均、1時10分とか15分くらいだと教室の掃除まであとわずか。
つえで上ってきたということは、またつえで下りなければいけない。十分な時間などなかったわけですね。はい。とまぁ補足はこれぐらいにして。

とにかくそのように外運動のグループ、女子グループなど特定のグループ=群れ・集団をつくっていた彼ら彼女らですが、そのグループには、だいたいいつも、同じ面々がそれも自然と集まりだす。 たまに違うグループの子が混じっている時があるが、2,3日ほどでまた元に戻っている このような特徴があったのです。小学校3,4年ごろからこれに気が付いた私は以後、グループ観察が一段と楽しくなりました。

これらの私の行動の背景には、みんなと同じように自由には動けない、あまりこのような時間がない、そもそも先生と1対1に慣れていた(居心地の良さを感じていた)私にとって、グループの輪に入ると和めなかった。というのもあったんでしょうが。。。

刷り込み(ペインティング)された理想の先輩象に悩み続ける日々

そんなこんなで5,6年生=私の学校では3と4。5と6が複式学級だった になりました。
5年生と6年生が同じクラスで生活しているため、←さっきもおんなじこと書いたねとツッコミをいれる
5年の終わりに差し掛かってくると、私は焦りでいっぱいでした。進路のこともそうですが、来年からは自分がこの学校での最上級生の1人になる。1,2年の時に言われたように、『頼りがいのある先輩・お手本になるような先輩』が自分に務まるのか?無理だよなぁ…と。

今から思えば、そんなこと。どーだっていいんですけどね。だって自分じゃどうもこうも出来やしない悩みなんですから。けれどその当時の私は、そこから約1年弱。この呪縛とお付き合いしていくことになるのです。6年生の間は、ず~っとこれに悩まされていく一年になったのでした。

私が6年の時、私の1つ下には、世話好きで特に面倒見のいい子が2人いました。
私が車いすというのもあって、1年生の時から、学年問わず。み~んなだいたいは私に温かい目を向けてくれていました。

「学校」あるあるですが、よく先生たちから、「狩谷くんも先輩の言うこと、よく見たり聞いたりしとくんやで。自分が上級生になったら、その時先輩にしてもらったことを下の子に返していけよ」先生の何人かからこんなことを言われました。みなさんも経験がおありかと思います。

先生 というより、「大人」の言うことに対して素直に。何の疑いもなく聞いていた私は、「今はみんなにちやほやされたり、気にかけてくれたりするけど、『今は』これでいいんだ。自分も成長したら、その時の後輩にお返ししよう」と強く心に思いました。
『今は』とわざわざ当時の心境の中でも2重のかぎかっこで書きましたが、振り返ると、この時あまりにも強く心に刻み過ぎたばかりに、これが後々大きな重荷になったというのを、当時の私はまだ知る由もなかった。

自分も成長したら、その時の後輩にお返ししよう
強くなる思いが心理学の波とシンクロする…

6年生になり、相変わらず私が車いすという印象も手伝い、そして普段から周りがよく見えている人だったので、一つ下にいた上述の世話好きで特に面倒見のいい子の2人は、私や側にいる先生に「何か手伝うことない?」とよく声をかけてくれた。

すると先生は「スピードは遅いけど、自分でやりたいし、やってるから見守ってあげて。必要だったらこっちから声かけるから」とよく返していました。それでも彼ら2人はよく私を気にかけてくれていましたが。

そういわれると、彼らは「わかった」と言ってその場を離れていくのですが、私は違う意味で助かった~と思いました。

なぜって、こんなんじゃ、かつての先生の教えを守ることができないじゃないですか。
私は一応このころになると下級生の教室を昼に訪れては、明るく話すようにつとめ、彼ら彼女らの話し相手を担ったりもしていましたが、それにしても日頃から助けの手を差し伸べられてばかりでは、割に合わない。まだまだ足りない。上級生らしいことができない。

とくに、同じ2人に面倒見てもらいの、声かけてもらい。何かとあればこの2人の下級生が車いすを押してくれたり、一緒に手伝ってくれたり。余計に悔しかった というより6年として歯がゆかったんでしょうね。

衝撃的な第1波
~心理学とは、『相手の心を読む学問』~

時を同じくして、私は母から『心理学』という言葉・ジャンルがあることを知らされました。
しんりがくってなに?と聞くと、母は

相手の行動やパターンを計って(分析して)相手のクセなんかを読む。簡単にいうと、
『相手の心を読む学問』やね。

『相手の心を読む学問』その言葉は初めて心理学 というものを聞いた私には衝撃的かつ刺激的なものでした。算数や国語のように学問としてそんなものがあるのか…。だとしたら自分も相手の心を読みたい!読んで、相手より先に行動できれば、助けてもらってばかりのこの歯がゆさが解消できるのかもしれない…!

そう思って母とよく心理学についてこのころは話していましたが、聞いたことを見よう見まねですぐ実践しようとする私を見てか、「すぐにできるもんじゃない。それに勝手に分析しに相手のことに入っていってると思われたら、相手に嫌われるよ。」

こうして、心理学の1度目の波が来た私ですがそのときは、「相手に嫌われる」という母の言葉と、相手の心を読む学問』というフレーズの不気味さに圧倒され、「心理学」という存在を知るに留まったのが最初の出会いでした。

そこからしばらく悔しい・歯がゆい思いを誰にも相談せず、打ち明けることもしないまま、しこりのように心理学という存在を残して「6年生」を過ごすことになる私。今書きながら思ったけど、このときあれだけ側についてくれていた先生に相談できれば、ちょっとはラクになれたんじゃないのかなぁ…

自分に厳しく定めた「大人」の”定義づけ”

この年は私の人生で初めて、春に先生とちょっとしたことからケンカをし、不登校一歩手前まで行きました。いままで順調に自分の中では「大人」と付き合えていた私。先生とは、自分の家族=父・母のような存在で、家族含め、「大人」とは、おさない自分にとってこれから生きてゆくうえでの教訓のようなものを示してくれる存在だと信じ、そこに家族以外は『絶対的な上下関係』のような、超えてはいけない/踏み込んではいけない線を横に一本ピーッ と引き、親しいようにみえる話しぶりをしていても、そこは徹底的に守る。という自分に厳しくバリアをはっていた部分もありました。

しかし、そう自分で”定義づけ”していたからこそ、ミスをしたり、間違っていたり、不安なことがあったりすれば、確実にフォローしてくれる。甘えられる。甘えても(頼っても)いい存在。これは自分と同じ「子ども」では得られないものだ と。ある種の安心感も持って接していた記憶があるので、縛りを設けてツラいとか、負の感情ばかりではなかったし、どちらかといえば、安心感のほうが勝っていました。

もしかすると年上の方が一緒にいて落ち着く というのは、このころ自分で自分に植え付けたものが基になっているのかもしれません。

そんな「大人」である先生と初めてケンカをしたということは、初めて自分を主張し、初めて自分の中に定めたルールにも歯向かったということ。
後にわだかまりもとけ、10月初めごろに自分の思いを伝えることもできましたが、その少し前。同じ年の夏に、体に入れていた針金を抜く手術もしたのは、大きかったんでしょうね。手術が終わった2学期ごろから、先生に対する考え方が変わったな と感じていました。

とにかくこの年はいろいろありました。関係性は卒業までに修復できたけれども、それでも心のモヤモヤまではきだすことは出来なかった。
まぁ、モヤモヤの文字からも分かるとおり、自分でもハッキリしてなかったんだから当然か。
これが私の心理学との最初の出会いだったわけです。
予想以上にこのパートが長くなってきたので、これを前編として続きは月曜日あたりに書くとしますか。

それでは、今日はこの辺で。
~風の向くまま。気の向くままに~